玉造黒門越瓜とは?

大坂城の玉造門(現・大阪市中央区玉造1丁目)が黒塗りの門であった事から、この門を別名黒門と呼び、江戸時代この黒門付近で作られ名産となった瓜の事を「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」という。

一般に、くろもんと呼ばれ、実は最も長大、濃緑色で八〜九条の白色の縦縞があり、糟漬けにしておいしかった事から浪花名産の一つとされた。

江戸時代の狂歌師・貞柳は「黒門といえども色はあおによし奈良漬にして味をしろうり」と一首とどめている。

 

玉造黒門越(白)瓜の歴史

江戸時代前期、大坂の越(白)瓜は主に西成郡で栽培され、木津村・今宮村が越(白)瓜促成栽培の祖とされた。徐々に
越(白)瓜の栽培が玉造村にも広がり、玉造の黒門付近で良質の越瓜が採れたことから玉造黒門越(白)瓜と呼ばれた。

玉造では貞柳(1654〜1734)の狂歌や安永6年(1777)『難波丸綱目』の「浪花名物寄(白うり 玉つくりくろもん)」、「玉造 白瓜市」などの所載から1700年代前半には玉造で越(白)瓜が栽培・商いされていたと考えられている。

当時、玉造でこの越(白)瓜に関わる重要な人物が玉造有力町人・高津屋吉右衛門(玉造平野口町町年寄)であった。

吉右衛門家は、代々玉造平野口町(明治5年〜は町名を東雲町通1丁目となる:現大阪市中央区玉造1丁目)に住み、玉造郷内に吉右衛門肝煎地と呼ばれた畑地を多く所有し、小澤家と共に玉造黒門越(白)瓜の生産・商いに力を入れた。

また、この玉造平野口町には、天正10年(1582)・豊臣秀吉に瓜を献上したことにはじまる白瓜市場があり、明治半ばまで続いたこの市場は黒門市場とも呼ばれ、特に江戸時代に流行したお蔭参りの旅客で大変賑わった。

また、江戸時代中頃の玉造は幕府より与えられた酒造りの権利(酒造株)により多くの酒造業者が集まった。

その中でも豊臣期に近江から来往し、高津屋と同様に玉造の開発町人であった萬屋(佐々木)小兵衛家は玉造中町(現・大阪市中央区玉造1丁目・2丁目)を中心とした酒造業を営み多くの産をなした。

玉造の酒造りから出る酒糟と玉造黒門越(白)瓜と呼ばれた良質の瓜がもととなり名物の奈良漬が生まれた。昭和61年(1982)には同玉造2丁目にある大阪市立玉造小学校の体育館新築工事の際に1700年代中頃の酒造竈が発掘された。

この竈は寛政10年(1798)の『日本山海名産図会』の中にある伊丹酒造挿図其二麹醸とたいへん似ており、当時玉造で酒造りが盛んに行われていたことを物語っている。
『日本山海名産図会』「伊丹酒造」

しかし玉造の町は、明治時代から砲兵工廠で働く工員達の居留地・娯楽地となりはじめ、城東線・市電の開通等で一気に近代化が進み、町は大きく様変わりした。

この近代化の波に押され、玉造黒門越(白)瓜をはじめ白瓜市場、田畑、酒造業者は玉造から次々とその姿消していった。

長い年月が過ぎ再びこの越(白)瓜が玉造の地へ戻って来たのは平成14年(2002)のことである。

また玉造黒門越(白)瓜の復活を祝い、平成16年(2004)7月に(社)大阪外食産業協会会長・田舞喜八郎氏のご揮毫奉納により、当時吉右衛門肝煎地があった稲荷山を臨む神社畑に石碑が建立された。

例年7月15日には神社畑で栽培された玉造黒門越(白)瓜が玉造黒門しろうり食味祭の参加者にふるまわれる。

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